其の一阡弐百八拾九
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
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撮影日 2016年02月12日 土曜日 アップ日 2017年02月09日 木曜日 |
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ワッカン~ 資料として気になる街角 撮っておきや!(by UFO先生) 坂越浦 播磨灘に位置する天然の良港坂越浦に、渡来人であった秦氏や、 数々の南北朝時代の伝説が残る古くから開けた港町である。 地元に残る旅人の伝承記録を見ると、坂越が瀬戸内往来の 重要な中継地として長くあった事が窺える。 901年(延喜元年)、都から九州の大宰府へ下る途中であった菅原道真や、 1565年(永禄7年)、長崎・平戸から京都に向かう途中のイエズス会宣教師ルイス・フロイス、 1587年(天正15年)、九州遠征中の豊臣秀吉を見舞った細川幽斎も、 その帰途に坂越に足跡を残している。 17世紀に入ると、瀬戸内海有数の廻船業(西廻り航路)の拠点として発展し、 その後半には奥藤、大西、岩崎、渋谷家などの豪商が廻船業を営み、 坂越浦には西回り航路用の大型廻船31艘、内海航路用の小型廻船15艘余りが犇いていたという。 また、西国大名の参勤交代の港としても使われていた。 この頃の坂越港には、数回にわたってオランダ船の入港記録もあり、 1787年(天明7年)には、蘭学者でもあった司馬江漢が坂越に立ち寄っているのが興味深い(『江漢西遊日記』)。 18世紀以降、北前船が停泊する日本海諸港の台頭によって内海の港町の多くが衰退するなかで、 坂越は「赤穂の塩」を運ぶ拠点として明治時代まで栄えた。 坂越浦から、高瀬舟の発着場があった千種川まで続く「大道(だいどう)」と呼ばれる 通りの風格ある町並みは、往時の坂越を今に伝えている。 (Wikipediaより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい) |