古/いにしえの面影       其の一阡弐百九拾
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2015年08月27日 木曜日
アップ日  2017年02月13日 月曜日
京都府亀岡市曽我部町屏風岩(明智の戻り岩)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

本能寺討ち入り
亀山から西国への道は南の三草山を越えるのが当時は普通であったが、
光秀は「老の山(老ノ坂)を上り、山崎を廻って摂津の地を進軍する」と
兵に告げて軍を東に向かわせた。
駒を早めて老ノ坂峠を越えると、沓掛で休息を許し、
夜中に兵糧を使い、馬を休ませた。
沓掛は京への道と西国への道の分岐点であったが(『川角太閤記』によれば)
信長に注進する者が現れて密事が漏れないように、
光秀は家臣天野源右衛門(安田国継)を呼び出し、先行して疑わしい者は斬れと命じた。
夏で早朝から畑に瓜を作る農民がいたが、殺気立った武者が急ぎ来るのに驚いて逃げたので、
天野はこれを追い回して20、30人斬り殺した。
なお、大軍であるため別隊が京へ続くもう一つの山道、
唐櫃越から四条街道を用いたという「明智越え」の伝承もある。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

摂丹街道(R423)の
亀岡市外地向けて~

※JR亀岡市まで
ハイキングコース

明智戻り岩
摂津と丹波を結ぶ峠道に大きく立ちはだかるこの大岩は屏風岩と
よばれていました。 天正10年(1582)6月1日
明智光秀が織田信長より豊臣秀吉の中国攻めの援軍を命ぜられて
丹波亀山を出発し先鋒が屏風岩に達したところで急遽
京都本能寺へ鉾先を変え後戻りしたことから
後世に「明智戻り岩」と呼ぶようになったと言われています。
また、一説には光秀が丹波攻めに際して、この岩まで進軍し
駒を止めて斥候を出したところ、この先には討つべき敵はいないとの報告を
受けたので、引き返したことによるとも言われています。
この谷にはこの屏風岩のほかに天狗岩・駒繋石・法華岩といったように
名付けられた巨岩がおおくみられます。
この法華岩は享徳3年(1454)に『南無妙法蓮華経南無法主日蓮大聖人』の
題目が彫られています。
(看板より)

※上のガードレールは
R423(摂丹街道)
昔はダンプ街道として
自転車走行は怖かったんですよ~

法華岩






植林されています。



岩がゴロゴロして~

※この岩にも~

文字が彫られています。



此処を進軍したんでしょうか?



やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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