古/いにしえの面影       其の一阡弐百六拾七
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2014年12月02日 火曜日
アップ日  2016年08月26日 金曜日
兵庫県洲本市本町(厳島神社)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
庚午事変(こうごじへん)は、明治3年(1870年)に当時の徳島藩淡路洲本城下で
洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。
稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。
結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、
この事件がなければ淡路島は現在も兵庫県ではなく徳島県であった可能性が高い。
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、主家である徳島蜂須賀家との様々な
確執が以前よりあった。
幕末期、徳島側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、
稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島側との対立をさらに
深めていくようになった。
そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、
陪臣(蜂須賀家の家臣の家臣)である稲田家家臣が卒族とされたことに納得できず、
自分たちの士族編入を徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、
今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする
稲田藩(淡路洲本藩)を立藩することを
目指す(そうすれば自分たちは士族になる)ようになり、
明治政府にも独立を働きかけていくようになる。
明治3年5月13日(1870年6月11日)、稲田家側のこうした
一連の行動に怒った徳島側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家と
その家臣らの屋敷を襲撃した。
また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、
脇町(現在の美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍した。
これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。
これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、
他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。
当時の日本は版籍奉還後もかつての藩主が知藩事となっているだけで、
旧体制と何ら変わらない状態だった。
政府にとって、この問題は中央集権化を推進していく上で
是非とも克服してゆかねばならなかった。
だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が
起こりかねないため、慎重な対応を余儀なくされた。
藩自体の取り潰しはなかったものの、
洲本を含む津名郡は翌明治4年(1871年)5月に兵庫県に編入されている。
稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという
名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、
彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。
この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、
映画『北の零年』でも描かれている。
(Wikipediaより)

お仕事よ!お仕事~

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

洲本市役所橫の
何の建物でしょうか?

すもと公設市場
中の、お店は少なかったです。
悲しいなぁ~

※アーケード
COMMODE

辨天銀座

※厳島神社さんへの
参道ですね。

歴史の有りそうな写真館

※脇の路地

引き戸がいいですね。

※こちらにも写真場

歓楽街

※夜は賑わっているんでしょうか?

脇も面白そうな~


島神社(いつくしまじんじゃ)は、兵庫県洲本市に鎮座する神社。
祭神の市杵島姫命が弁才天と習合していたため、
現在でも「淡路島弁財天」として親しまれている。
秋の例大祭である弁天祭は11月21日から3日間行われ(本祭は22日)、
大勢の参拝客で賑わう。
(Wikipediaより)


洲本城跡は、市街地の南にそびえる標高133mの三熊山山上にあり、
戦国時代から江戸時代にかけて淡路国統治の拠点となった城で、
現在は往時をしのぶ石垣が残っています。
城郭は戦国時代の様式をよく表しており、保存状態も良く、
国の指定史跡、兵庫県の指定文化財に指定されています。
城跡には東西800m、南北600mの範囲に総石垣造の曲輪(くるわ)が見られます。
大手門を南に、天守を北の最も奥の最高所に設けて紀淡海峡を見下ろし、
はるか彼方に大阪・堺の市街地を望むことができます。
現在の天守閣は昭和3年に展望台として建てられたもので、
模擬天守閣(展望台)としては日本最古のものです。
(※ 現在、天守閣へは入場できません)
三熊山は、瀬戸内海国立公園に属し紀淡海峡を一望できる景色が素晴らしく、
たくさんの貴重な植物も自生しています。
春には山全体が薄紅色に覆われる桜の名所で多くの花見客で賑わいます。
(淡路島観光ガイド・あわじナビより)




拝殿舎正面



可愛い柴右衛門狸像の後ろに摂社 荒神社さん
「雲折々人を休むる月見哉」はせを
厳島神社境内には天保14年(1843)に建立された 松尾芭蕉の句碑があります。
淡路島で生まれたといわれる 芭蕉十哲の一人である服部嵐雪の流れをくみ、
淡路島では江戸時代から俳句が大変盛んです。
島内各地にこうした芭蕉の句碑をはじめ多くの句碑が建てられています。
現在もなお、淡路島は俳句の盛んなところです。
(淡路島の弁天さん厳島神社と島の歴史一こまHPより)


※手水鉢

 子持ち狛犬



石工 山口萬平

※明治30年
ヤマハ㈱創業の年

中々の造作ですが~

※「まつ杉はまだほの暗き木の間より曙いそぐ山桜かな」重胤
厳島神社境内右手に幕末の国学者鈴木重胤の歌碑があります。
鈴木重胤は文化9年(1812)淡路島北淡町仁井村の庄屋に生まれた偉大な国学者です。
平田篤胤に私淑し、篤胤死後の門人となり、 祝詞講義、
日本書記伝をはじめ多くの著作をものにしました。
(淡路島の弁天さん厳島神社と島の歴史一こまHPより)


本町辺り

※石蓋のコナレ具合に
時を感じます。





連子格子と本瓦土蔵

※牛乳箱は現役?

左海屋醤油醸造本店
出格子窓が目立ちます。

※連子格子も~

蜂須賀藩の御用商人として
繁栄した。
初代当家の父は堺商人だったとか。

※本瓦が綺麗です。

細かい意匠もいいですね。

※隣にも似たような
建物があったんでしょうか?


コナレタ連子格子

※看板も~

蔵の内部
多くの梁に目が行きます。
前には

※現在は車庫ですがね~
残念…

赤色洋瓦にも目が行きます。

※路地にも~

洲本市役所前に
会所町碑

※江戸時代の洲本の町割

ヨシダ美服
オリオン座前
洲本駅前給油所
淡路に鉄道があった頃。
(大正期から昭和41年・洲本~福良)

※タバコ屋サン
パーマ屋サン
立ち飲み屋サン
現役かは?

元はカネボウ紡績工場の煉瓦建物
を利用した淡路ごちそう館御食国


 洲浜橋

炬口路地

※又来ますわ!
釘煮買って帰りました
(冷凍ですが…)
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.