古/いにしえの面影       其の一阡弐百五拾四
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2014年09月19日 金曜日
アップ日  2016年08月23日 火曜日
兵庫県伊丹市寺本(西国街道)R171沿線

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

平安時代、都と大宰府(だざいふ)を結んだ山陽道の江戸時代以後の呼称。
ほかにも「京道」「山崎通」とも呼ばれました。
市域は下河原字出口から池尻1丁目までで、昆陽は宿場町となり、
本陣(大名、公家などの宿所)が置かれていました。
(伊丹市HPより)

お仕事よ!お仕事~

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

武庫川渡る甲武橋
先には六甲・甲山も~

※天平3(731)年7月5日の日付けが文末に書かれている
『住吉大社神代記』という巻物が大阪市にある住吉大社に残されています。
かつて地方の行政事務をつかさどる国司が着任する際には、
その国の神社を巡拝すると決められていました。
中でも真っ先に参拝する社格の高い神社が「一宮」といわれており、
摂津の国では、その「一宮」が住吉大社となっていました。
この『住吉大社神代記』は、町名の由来である“いながわ”が出てくる最も古い書物と思われます。
ただし、この書によると上流部分は「木津河」「美度奴川」といい、下流を「為奈河」と呼んだとあります。
“いながわ”という名の起源については、流域に住んでいた
「山直阿我奈賀」という人物にちなんだという地名説話が書かれています。
さて、この書には興味深いお話が出てきます。神は通常姿を現さないもので、
現す場合も老人の姿をとる事が多いのですが、
ある時、住吉大神が若い男性の姿をとって出現されたというのです。
住吉大神は「宮城(神殿)」を造る用材を猪名川の上流から流していました。
そのりりしい姿を見た為奈川の女神と武庫川の女神は心を奪われ、どうしても妻になりたいと思い激しく争いました。
為奈川の女神は大きな石を次々と投げつけ、武庫川の女神を打ち倒し、
川べりの芹を全部引き抜きました。それゆえ猪名川には芹はあっても大石がなく、
武庫川には大石があっても芹が生えていない、というものです。
この説話から、猪名川の水運が古くから利用されていたことがわかります。
(兵庫県猪名川町HPより)


西宮市樋ノ口町
流石に水路ですんで自転車は無理ですね~
R171を渡るマンボウ(マンポ)です。
前には

※大きな木も~

保護樹木
西宮市
エノキだそうです。

※もう一度
伊丹市へ戻って…

高 師直(こう の もろなお)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
足利尊氏時代に執事をつとめた。
本姓は高階氏だが、一般的には名字である「高」と、
諱である「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。
高師重の子として生まれる。足利尊氏の側近として討幕戦争に参加し、
建武の新政においては、師泰と共に窪所・雑訴決断所の奉行人に任じられている。
尊氏が後醍醐天皇に中先代の乱を機に離反すると、尊氏に従って鎌倉へ下向し
九州へ逃れた時にも従うなど、終始尊氏の補佐に務めた。
1338年、尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと、将軍家の執事として絶大な権勢を振るった。
高氏の一族で、侍所や恩賞方の要職を占め、河内・和泉・伊賀・尾張・三河・越後・武蔵など数ヶ国の守護職を担った。
南北朝の動乱では、延元3年/建武5年(1338年)に和泉堺浦で北畠顕家を、
正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いでは楠木正行・正時兄弟らを討ち、
さらには吉野山へ攻め入って焼き払い、南朝方を賀名生(奈良県五條市)へ撤退させるなど、主に軍事面で活躍した。
幕府内部は、将軍尊氏と政務を取り仕切る直義の足利兄弟による二頭制となっていたため、
やがて両者の間に利害対立が頻発。
師直は直義と性格的に正反対だったこともあって直義との対立が次第に深まっていき、
幕府を二分する権力闘争へと発展していく。
やがて、直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって執事職を解任された師直は、
師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃する。
さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲して、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する抗争に発展した。
尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。
しかし、一説にこの騒動は、師直と尊氏の示し合わせによるものといわれる。
直義の出家後、師直は尊氏嫡子の義詮を補佐して幕政の実権を握る。正平5年/観応元年(1350年)、
直義の養子の足利直冬討伐のために尊氏と共に播磨へ出陣するが、この際に直義は京を脱出して
南朝に降参、南朝・直冬と共に師直誅伐を掲げて挙兵した(観応の擾乱)。正平6年/観応2年(1351年)、
摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直兄弟の出家を条件に和睦するが、師直は摂津から
京への護送中に、怒り狂って待ち受けていた直義派の上杉能憲らによって武庫川畔(現兵庫県伊丹市)において、
師泰、師世ら一族と共に、殺害され、首を取られ、体は武庫川に投げ捨てられた。享年は60代くらい。
なお、師直・師泰兄弟だけでなく高氏一族の多くがここで殺害されてしまった。
13歳に過ぎなかったといわれる師直の子・師夏まで犠牲となった。もう一人の子・師詮は
この時は行動を別にしていたらしく難を逃れたが、正平8年/文和2年(1353年)に起こった南朝勢との戦いで命を落とした。
(Wikipediaより)




昆陽寺(こんようじ、こやでら)は兵庫県伊丹市寺本にある高野山真言宗の寺院である。
山号は崑崙山(こんろんさん)。行基が創立した畿内49院のひとつで、西国薬師四十九霊場第十九番札所。
西国街道(現・国道171号)沿いに位置し、地元では「こやでら」や「行基さん」と呼ばれて親しまれている。
(Wikipediaより)


※行基自作と伝えられる薬師如来像は
開山以来秘仏であったが、
現在は開帳されている。

(Wikipediaより)


昆陽寺は僧行基創立の畿内四十九院の一つとして天平3年(731年)に
創建された「昆陽施院(せいん)」の系譜をひく寺です。
その後天正7年(1579年)に織田信長の兵火にかかって堂塔を焼失し、
それ以前の建物は何一つ残っていません。
国道171号線に面して建つ山門は江戸時代中期に再建されたもので、
昭和44年(1669年)3月に兵庫県の指定文化財(有形文化財)に指定されました。
山門は上層周囲に縁をめぐらし,細部にみる絵様繰形(えようくりがた)の形式手法は、
江戸中期(18世紀中期)のそれをよく伝えています。
三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造り、本瓦葺です。
桁行は8.6メートル,梁行4.97メートルです。内部戸口柱を通柱(とぐちばしら)として、
上層柱をも兼ねる構法は珍しく,斗挟部(ときょうぶ)中備え間斗(けんと)
上の双斗肘木(ふたつどひじき)や妻飾虹梁(つまかざりこうりょう)
下の大斗花肘木(だいとはなひじき)の意匠は、なお前代の余風を伝えています。
山門の二天像も兵庫県の指定文化財に指定されています。
(伊丹市HPより)




R171沿い
伊丹市昆陽北

長い参道~

※ゆっくり来たいなぁ~
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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