古/いにしえの面影       其の一阡弐百四拾七
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2012年08月某日 某曜日
一部  2013年03月某日 某曜日
アップ日  2016年04月26日 火曜日
東京都渋谷区本町(幡ヶ谷本町)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

神田川笹塚支流(かんだがわささづかしりゅう)は、かつて東京都杉並区、
渋谷区および新宿区を流れていた神田川の支流である。
昭和30年代に暗渠化され、東京都下水道局の落合処理区十二社幹線
(延長2.3km、流域面積3.2?)として利用されている。
なお、渋谷区の公文書には固有の名称は見られず、一貫して神田川支流と記載されている。
幡ヶ谷周辺では縄文時代・弥生時代の遺跡も散見されることから、
歴史的に和泉川は幡ヶ谷付近で生活する人々の生命線的存在であった。
とりわけ稲作農業を営む者にとってはきわめて重要な水源であったはずだが、
河川としての規模は小さくまた源頭水源を有さないことから、
その水供給はきわめて不安定であったものと推察される。
しかしながら1654年に玉川上水が通水されても村内への
分水の設置はなかなか許可されなかった。
幡ヶ谷村への分水の許可は、1722年以降の新田開発政策によって
多くの分水が許可されるようになってから50年以上遅れた1775年になってから、
しかもその規模はかなり小さなもので、取水口のサイズはわずか4寸(名刺2枚程度)と
玉川上水の分水としては最小であった。
それでも地元にとっては重要な水源であったようで、1898年に玉川上水新水路建設に
伴い分水が廃止となった際には、
盗水を行ったうえでそれを湧き水と偽装することにより水源を確保していた。
この偽装工作は、まず偽装のために周囲に小さな弁天池を掘り、
その弁天池のほとりにもともと地元にあった弁財天を移設、
そのあと弁天池の底を玉川上水と連結することで上水の水を湧き水のように
偽装して弁天池へと導水するというかなり凝ったものであった。
この偽装工作は、幡ヶ谷の市街化で農業用水としての存在理由が無くなり
自然消滅するまで続いたという。
なお、偽装に使われた弁財天は湧き水消滅後は本来の場所に戻されたそうである。
この取水口(弁天池)から現在の環状七号線の付近で和泉川へ流下するまでの道水路は、
玉川上水とは逆に西に向かって流れていたことから、
地元では逆さ川とも呼ばれていたという。
(Wikipediaより)


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新しい家屋が多いのですが~
平成の下町風景

※昭和の引き戸も~

馬の背のような台地に
商店街が有ります。

※幡ヶ谷(はたがや):1082年(永保2年)に源義家が後三年の役から帰る途中、
小笠原窪(現在の本町付近)にて白旗を洗い、檜に掲げて祝宴を行ったことに由来するとされる。
「幡ヶ谷」の名前が古文書に初めて現れたのは戦国時代、
後北条氏が関東一円を掌握した時期の小田原分限帳であるという。
その後、後北条氏が滅びて関東八カ国が徳川家康の領国となり、
つづいて江戸幕府が開かれるに当たり幡ヶ谷はその大部分が幕府の直轄地となって、
そのまま明治を迎えた。
(Wikipediaより)


旧版地図等によると、甲州街道沿いには古くから集落が形成されていた。
江戸時代末期には幡ヶ谷は豊島郡に属し、豊島郡幡ヶ谷村と称していたが、
1878年(明治11年)に豊島郡の一部をもって南豊島郡が設立されるに及んで南豊島郡幡ヶ谷村となった。
そして、その頃から幡ヶ谷村は隣の代々木村と連合して役場を設けるなど関係を深めていたが、
1888年(明治21年)に市制町村制が公布、施行されるに及んで、
翌1889年(明治22年)に正式に合併して代々幡村となり、1915年(大正4年)に町制を施行して代々幡町となった。
1914年頃の幡ヶ谷地域内の京王線開通ならびに1923年(大正12年)の関東大震災等を契機に宅地化が進んだ。
町制施行以前に南豊島郡はすでに東多摩郡と合併して豊多摩郡となっていたので、
幡ヶ谷は東京府豊多摩郡代々幡町大字幡ヶ谷と呼ばれ、地域内に
下町、幡ヶ谷本村、原、中幡ヶ谷、笹塚の5つの小字を有した。
昭和初年までは人通りも少ない農業地帯であり、通行人が狸に化かされた怪談話が伝わるほど淋しい地域だった。
20世紀前半、付近で工場の立地が進み、「幡ヶ谷工業地帯」とも呼ばれた。
現在は新宿に近い利便性からかつての農村風景は遠く失われ、
繁栄する住宅地・商業地となってマンションが立ち並び、店舗が密集している。
(Wikipediaより)


※ランドマーク(此処では都庁舎)が~

閑静な住宅地

※台地の面影が~

昭和は遠くなりにけり…




                                                 (此処から三月)
神田川笹塚支流暗渠部~

 見返って~
山手通りが見えます。

※河川跡が遊歩道に~

 二軒家橋跡



 BMでしょうか?
角石

 小さな橋が沢山有ったんでしょうね~

※台地の廻りを流れていたんですね。

 弁天橋親柱

※木製ベンチも~

 昭和30年
あの日のママ~



 夜は怖いかも~
 川跡は、まだ続きます。

※現:メグミルク
 高低差の取り合い


 両側からの流れ込みのような~

※商店街
 

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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