古/いにしえの面影       其の一阡弐百参拾四
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2014年06月18日 水曜日
アップ日  2016年04月11日 月曜日
大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町(方違神社)周辺

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、
方違大依羅神と号し、この社を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、
三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、
古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。
現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。
自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、
清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、
厄除守に御札のほか御砂、ちまきがある。
神宮寺の向泉寺は永正年間に焼失し、のち堺市街地に再建された。
1907年(明治40年)に泉北郡向井村の氏神社である向井神社を合祀。

(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

北西向いた参道~



門前ソバ屋さんが有るほど
賑わったんでしょうか?

※茅の輪くぐり

向井神社
合祀記念碑

※向井神社の名残ですね。

大正期の狛犬


※吽

 前に
開口神社サンで見たものと同じ形


※吽

 方違社燈籠~
米市場銘



三国山は神宮寺の名残でしょうか?
手水舎

※摂社 神明社

拝殿社正面

※神社南側に
百舌鳥耳原北陵(もずのみみはらのきたのみささぎ)
反正天皇(はんぜいてんのう、仁徳天皇24年? - 反正天皇5年1月23日)は、
第18代天皇(在位:反正天皇元年1月2日 - 同5年1月23日)。
多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)・水歯別命(古事記)。
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗であった。
生まれながらにして綺麗な歯並びであったので、瑞歯別の名があるという。
古事記によれば、身長は約9尺2寸半(約3.04m)もあったという。
仁徳天皇87年、父仁徳天皇の崩後、
叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習である曽婆訶理(隼人)を
利用して誅殺した(従って、直接手は下していない)。
履中天皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に履中天皇が崩御し、
翌反正天皇元年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、
共に和珥木事の娘である和珥津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。
同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、皇太子も立てず、
子孫が即位することもなかった。10月に河内丹比を都とする。天下太平であり、
何事もなく在位5年。反正天皇5年1月に崩御。『古事記』『水鏡』に60歳。
『古事記』に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当し、
生年は逆算して、兄履中天皇より9歳年下の西暦378年に相当するが、定かではない。
(Wikipediaより)




※吽

手水鉢



境内風景

※藤棚
古木です~

公債百圓を奉納されています。

向泉寺さんの
名残~
石燈籠に有りました。

※江戸
多くの氏子

社務所

神功皇后
御馬繋の松碑

詠草塚と井戸

神社を失礼して~
コンクリ製の丸太飾り
職人のニヤリが~

※市内方向に~
ん?

高嶋先生ありましたよ~
力石
伴若

※何で此処でしょうか…
落ちてます。この地区は
昔なら、持ち運べる者は
持って行って良いと伺いましたが~

北花田口交差点
歩道橋~

土居川公園近くに
龍年井戸地蔵尊

※道標兼ねています。
右 かうや山
左 あさか山

屋根の角が折れています。
自動車がぶつかったんでしょうか?
バチ当たりますよ。。。

※旧堺市街絵図

黄金の日々ですよね~
旧市街は…



左 妙国寺 大坂道
右 かうや道 大峰道

※先祖供養ですね。

安政期のもの

新旧長屋
縦型か横型か?
ニラメッコ



南海高野線堺東駅近く

※踏切渡って~

綺麗な築地

※石貼り洋館

蔵改造部屋

※角家は好きです。
地蔵様も~

紅谷禅庵
天皇山紅谷庵(通称:べにやあん)は、大永年間(1521~1527)に
堺大小路在住の豪商紅屋喜平が、この地に草庵を建てたのが始まりです。
池田から乱を避けて堺に来た連歌師牡丹花肖柏を住まわせました。
その後、荒廃しましたが(中略)
安政元年、泉北郡信太村 蔭涼寺の住職環渓密雲が日々多数の僧を連れ、
堺を托鉢の際、当庵の荒廃を見てこれを惜しみ、自ら譲受け大修理をし、
僧侶育成の法を講じて遂に五十余員の僧侶を安住させました。
しかし、環渓が武蔵 世田谷 豪徳寺 に転住後、
遺風を継ぐものがなく、再び廃庵となるところ、これを知った
環渓が山城 宇治の興聖寺に昇住する時、櫛屋町の土川茂平らに
援助を乞い大修理を行い、明治元年(1868)に本堂、
庫裏を建て曹洞宗の寺としました。




本堂
前に稲荷社

大阪府立三国丘高等学校
1895年に開口神社内を仮校舎として創立された
大阪府第二尋常中学校(のちの大阪府立堺中学校)を起源とする。
大阪府立高校の中では歴史の古い学校のひとつとなっている。
(Wikipediaより)

校庭に駐蹕之跡
明治天皇が来られたんでしょうね。

※堺キリスト教会

砂路地も…

※ん?凱旋門~

天王貯水池(てんおうちょすいち)とは、
かつて大阪府堺市堺区中三国ケ丘町にあった貯水池。
現在は遺構が保存され、旧天王貯水池として
国の登録有形文化財に登録されている。
明治43年(1910年)に堺市街地としては
初めての上水道施設として建設された
煉瓦及びコンクリート造の貯水池である。
人口6万人規模の給水を行うため、総面積662㎡の貯水規模だった。
直射日光を遮り雑菌の繁殖を抑えるために
貯水槽の周囲に土が盛り上げられている。
点検用の通路を挟んで2つの貯水槽が設けられた。
それぞれの貯水槽は5つの区画に区切られ、スパン約3.6mの
煉瓦造のヴォールト架構で覆われている。
凱旋門風のデザインが施された点検用の出入口がある。
昭和37年(1962年)に使用が停止された。
(Wikipediaより)




毎年11月頃に公開されるとか…

※前の地蔵様
地蔵様は多い地区です。

方違神社のクロガネモチ

※鉄枠で囲われています。

府指定
天然記念物

余りの存在感で
歩道が狭く感じられますが
この木が先に有ったんですよね。

堺市独特のインベーダーゲーム・キャラに似た
雨水枡。

※脇の石は力石では??
少し角張ってますかね?

大阪刑務所のルーツは、1882(明治15)年に設置された
堀川監獄(大阪監獄署、現・扇町公園)である。
その後、周辺の市街化が進んだことなどから1920(大正9)年、現在地へ移転した。
1986(昭和61)年に建物・施設の老朽化により、
刑務官官舎も含めた建替え計画が発表され、
1999(平成11)年に現在の施設に建替えられた。
官舎の統合などによって生じた余地はベルマージュ堺として再開発されている。
(Wikipediaより)
(天満のおっさん、堺の別荘へ無期徒刑~♪
上方落語へっつい盗人より)

※JR堺市駅近く
長尾街道沿いの長屋商店街…
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.