古/いにしえの面影       其の一阡弐百参拾二
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2014年07月24日 木曜日
アップ日  2016年04月07日 木曜日
大阪府大阪市都島区(毛馬閘門)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

1943年、北区と旭区から分離・再編して発足した。
区名の由来は長柄豊崎宮の東岸(向かい側)に位置していたことから付いた
『宮向島(みやこうじま)』という名が転訛したという説と、
単純に都があったことから付いたという説の二つが今のところ有力。
豊臣秀吉の時代には南部の京橋周辺が京街道(現:国道1号)の宿場町として栄え始め、
江戸時代に入ると現在の都島通以北の地域が都市近郊の農村地帯として開墾され始めた。
明治時代以降は大阪の急速な発展によって次第に農村地域から住宅地・工業地・商業地の
混在化した市街地に変貌を遂げ、大阪市北部有数の産業地区となった。
戦後も人口増加が続き、繊維業や軽工業を中心に大いに発展したが、
1970年代以降は地価の高騰やドーナツ化現象などに伴って工場は郊外に移転、
昔ながらの市街地では労働力層の人口流出が起こった。
これにより都島区には長く停滞感が漂っていたが、
リバーサイドともぶちや1982年にカネボウの工場跡地に
大型高層住宅群ベルパークの建設が始まったことを契機に、
都心に近接した交通の便の良い理想的な住宅地としての価値が見直され、
マンション建設・市街地再開発が加速。
区の人口は2004年に10万人の大台を回復し、現在も都島区は着実に発展を続けている。

(Wikipediaより)

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

1930年頃の地形図見ていたら~
城北公園通りが無い…
JR大阪東線(JR城東貨物線)
建設中を横目に~
散策散歩です。

※赤川1の交差点

赤一角屋さん
にて~

※此処から地形図の道路を~
この東側は道路がない地点も…
再開発が在ったんですね。

地形図で見たら~
東の国道1号から毛馬までの
一直線道路だったんですね。
貨物線の高架下
万国博の文字も~

※新駅が出来るんですね。

大東商店街
歩行者専用道ですね。

※蕪村の生まれ故郷とか…
片町に さらさ染むるや 春の風

昭和初期の路地ですね。



交差している道路は
水路付きでした。

※蕪村通り商店街
三角家屋も昭和初期から?

左は城北公園通り
右曲がると末広さん店(蒲鉾屋サン)

※公園通り渡って~

懐かしいなぁ~
模様ガラスに木枠窓

※職人のニヤリが~
木目飾り窓

長屋も~



風呂屋煙突

※見返って~
直線道路

淀川温泉さん
昭和初期から在ったんでしょうね。



後ろのUR住宅は
1920~1960年頃まで天満紡績~
敷島紡績工場だったんですね。



懐かしいなぁ~
こんな扉の駐車場が
我が家の近くにも有りました。
ネズミも入れませんね~

※大川に~

コガモが~



空には伊丹空港に向かう航路が~

※毛馬大橋の向こうに見える
UR住宅も紡績会社だったんですね。

夕日に手を振って…

※新淀川堤防
蕪村句碑横
春風や 堤長くして 家遠し

北摂の峰も
日に照らされて~

※淀川大堰:1962年(昭和37年)、水資源開発促進法が制定されて首都圏と関西圏への
水資源需要に対応するための水資源開発公団が発足。
淀川水系は利根川水系と共に水資源開発を重点的に行う「水資源開発水系」に指定された。
これにより淀川水系では淀川水系水資源開発基本計画が策定され、
上流部に高山ダム(名張川)・青蓮寺ダム(青蓮寺川)・室生ダム(宇陀川)が建設された。
下流部には新淀川と旧淀川分離の際に建設された可動堰があったが、
これを改良して大阪府・兵庫県への新規上水道・工業用水道供給を行うことを目的に改造。
1964年8月1日に旧大阪中央環状線・長柄橋沿いに長柄可動堰が完成した。
その後建設省近畿地方建設局は1971年(昭和46年)3月に淀川水系の治水計画の
基本となる淀川水系工事実施基本計画を改定し、淀川下流部における
計画高水流量を大幅に改定した。
この中で200年の一度の水害に対応する治水計画にするため、
予想する流量を当初計画の約二倍にあたる毎秒12,000tの洪水量とした。
こうした大幅な流量増加に対応すべく上流では日吉ダム(桂川)・
比奈知ダム(名張川)の建設、中流部では堤防の増強、
下流では新淀川・旧淀川の掘削と拡張によって治水を行おうとした。
ところが、下流部の河道掘削と拡張を行う際に、
長柄可動堰は洪水を安全に流下させる阻害要因になることが判明。
可動堰の改築が課題となった。
また、大阪市内の急激な人口増加は下水道の整備に遅れを生じ、
大阪市内の河川は軒並み水質が極度に悪化。
「ドブ川」の状態となり河川環境は著しく損なわれた。
こうした大阪市内の河川浄化も大きな課題となり、
流量の豊富な淀川から一定量の水量を供給して水質悪化を改善する必要が生じた。
こうした要因から建設省は長柄可動堰を撤去し、旧淀川分流点直上流部に
新しい可動堰の建設を1982年(昭和57年)より着手し、翌1983年に完成させた。


毛馬水門は、明治29年(1896年)に開始された新淀川の
開削を含む淀川改修工事の際に計画され、
明治40年(1907年)8月に最初の設備として、
普段の川の水を流すための「毛馬洗堰」と
船舶通過のために水位を調整するための「毛馬閘門」が完成した。
現在の毛馬排水機場の西側に設置された。
その後に行われた大川の浚渫工事で、大川の水位は大幅に下がり、
新淀川との水位差が広がり、閘門が対応できなくなったため、
最初の閘門の下流に二つめの閘門が大正7年(1918年)に設置された。
水位調節は第二閘門が行い、第一閘門は常時は解放して
新淀川の水量増大時に閉鎖する役目となった。
1974年(昭和49年)に現在使用されている閘門が完成、
第一閘門、第二閘門は1976年(昭和51年)まで併用され、
その後第一閘門周辺は公園施設として整備された。
第二閘門水路は現在は舟溜まりとして使用されている。
1983年(昭和58年)までに現在の淀川大堰・毛馬排水機場が完成した。


※現代の落雁
鵜ですがね…

前には~
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阪急千里線~

大橋房太郎の悲願。
新淀川!
大橋房太郎(おおはし ふさたろう、1860年 - 1935年)は、大阪府出身の政治家。
大阪府を流れる淀川の治水に一生を捧げ、治水翁と呼ばれた。
大阪府東成郡榎本村(現在の大阪市鶴見区)放出(はなてん)の庄屋に生まれた。
東京で鳩山和夫邸の書生をしていた時、1885年(明治18年)の淀川の大洪水のことを知った。
急遽帰阪し、惨禍を眼のあたりにして、淀川治水の大事業に取り組むことを決意する。
1891年(明治24年)、大阪府議会議員に当選する。
その後、房太郎らの努力が実り、1896年(明治29年)、国レベルでの河川法が制定され、
淀川改修費が出されるとの両院の可決をみた。
その時傍聴席にいた房太郎は思わず「万歳!」と大声をはりあげた為、
守衛に場外に連れ出されるという場面もあった。
淀川治水のため私財をなげうち、生涯清貧を貫いた井戸塀の政治家で、
晩年にも陋屋に住んでいた。
葬儀は大阪市葬で大阪市中央公会堂で行われた。
墓所は大阪市鶴見区放出東の正因寺。
(Wikipediaより)

手前は旧水路も残っています。



旧洗堰

※旧第一閘門上流側の制水扉

第一閘門は、内務省土木監督署の技師沖野忠雄の指導による
淀川治水計画の一環として設計施行されたもので、
両岸がレンガ造りとなっており、水路前後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、
両岸からハンドルを回して開け閉めした。
現在は使われておらず、貴重な産業遺産として
一部が淀川河川公園の一施設として整備保存されている。
2008年(平成20年)6月に旧毛馬洗堰とともに国の重要文化財に指定された。
水路長さ:約80m
水路幅員:約10m
側壁高さ:約8m

(Wikipediaより)

※沖野忠雄(1854~1921)
但馬国豊岡藩より東京の大学南校入学にてフランス語教育を受ける。
在学中に仏留学にて土木工学を学ぶ。
1881年に帰国後、政府より1883年土木局に属される。
以後内務省にて1918年まで河川改修と港湾整備事業を主導した。
(看板にて)



戦時中に供出され
1979年に復活されたとか~



煉瓦はフランス留学なので
フランス積み(フランドル積み)かと思えば
イギリス積みですね。
建築構造としての積み方にはフランドル積み(フランドルはベルギー全土からフランス東北部の地名。
日本では明治期に「フランス積み」と誤訳された)、イギリス積みなどがある。
正面から見たときに、一つの列に長手と小口が交互に並んで見えるのがフランドル積み。
一つの列は長手、その上の列は小口、その上の列は長手、と重ねてゆくのがイギリス積みである。

※旧第一閘門上流側の制水扉上部

旧第一閘門上流側の制水扉下部

※此処に入る船体だけが通れるんですね。

船の代わりに
歩道が付けられています。

※動かないでしょうが~

モクズガニも~
お袋の里(四国徳島ではヒゲガニと呼ばれています)
モクズガニ(藻屑蟹)Eriocheir japonica は、
エビ目(十脚目)・カニ下目・イワガニ科に分類されるカニの一種。
食用として有名な「上海蟹」(チュウゴクモクズガニ)の同属異種であり、
日本各地で食用にされている内水面漁業の重要漁獲種である。
成体はおもに晩夏から秋に河川の淡水域に出現する。
雌雄とも、一部の個体は越冬するが、多くの個体は秋から冬にかけて繁殖のために海へ下る。
そのため成体は春以降夏の終わりまで淡水域ではほとんど採集されない。
河口や海岸では、秋から翌年の初夏にかけて甲幅3-8cm程度の成体が採集される。
長く海にいる成体には甲に海藻が付着していることがあり、
時には20cm以上に成長した緑藻が見られることもある。
また繁殖期の終わりには、海域に毛の禿げた個体や脚の欠損した個体が多く見られるようになる。
脱皮しない限り、毛は伸びることはなく脚も生えてこないので、
脱皮しない繁殖参加個体は禿げて脚の無いまま死ぬことになる。







産業遺産
此の地に
残してくださいね。



供出されない時代がいいですね。



多くの船が通ったんでしょうね~



下り側扉

係船環

※船体の大きさと
水位の上下で位置も…

見返って~
桜が綺麗でしょうね~



長柄運河の眼鏡橋



新淀川開削の土砂を
海老江まで運ぶために作られたとか~

※和服が良いですね~

この階段

※上空には
ボンバルディア機が~

(eo光チャンネル 治水の神様淀川を掘る 沖野忠雄より
新淀川のハミ出し部(名残)に
城北公園が在ります。
 (eo光チャンネル 治水の神様淀川を掘る 沖野忠雄より
汲上バケツ式のベルトコンベアー自走式ですかね。

※反対側~

(eo光チャンネル 治水の神様淀川を掘る 沖野忠雄より)
貴重な工事中写真が~

※堤防は見えません
治水は大事ですね。

あの直線道路は、
工事用道路だったかもしれませんね。

※船溜まり

毛馬の渡しが在ったんですね。

※川砂販売
大阪府淀川土砂採取協同組合
買えるんですね~

毛馬橋より
下流方向~
造船所?

※左岸側淀川神社サン
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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