古/いにしえの面影       其の一阡弐百参拾一
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2016年02月14日 土曜日
アップ日  2016年04月07日 木曜日
大阪府大阪市都島区~北区(駒繋楠)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

1943年、北区と旭区から分離・再編して発足した。
区名の由来は長柄豊崎宮の東岸(向かい側)に位置していたことから付いた
『宮向島(みやこうじま)』という名が転訛したという説と、
単純に都があったことから付いたという説の二つが今のところ有力。
豊臣秀吉の時代には南部の京橋周辺が京街道(現:国道1号)の宿場町として栄え始め、
江戸時代に入ると現在の都島通以北の地域が都市近郊の農村地帯として開墾され始めた。
明治時代以降は大阪の急速な発展によって次第に農村地域から住宅地・工業地・商業地の
混在化した市街地に変貌を遂げ、大阪市北部有数の産業地区となった。
戦後も人口増加が続き、繊維業や軽工業を中心に大いに発展したが、
1970年代以降は地価の高騰やドーナツ化現象などに伴って工場は郊外に移転、
昔ながらの市街地では労働力層の人口流出が起こった。
これにより都島区には長く停滞感が漂っていたが、
リバーサイドともぶちや1982年にカネボウの工場跡地に
大型高層住宅群ベルパークの建設が始まったことを契機に、
都心に近接した交通の便の良い理想的な住宅地としての価値が見直され、
マンション建設・市街地再開発が加速。
区の人口は2004年に10万人の大台を回復し、現在も都島区は着実に発展を続けている。

(Wikipediaより)

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都島本通の昭和路地
私の散歩コースの一つなんですが…

※提灯・洋傘看板
前には

看板といえば…
TVでは有名店なんです。

大阪医療総合センター
明治初年では水源地
昭和初期には市電・市バスの車庫。

※向に都島神社サンの
一の鳥居が~
前に

旅館
葛の葉さん

※ 都島スポーツセンター
バドミントンしに来たことも…
昭和初期には国鉄淀川駅(車庫)
まだまださんは、D51の汽笛を覚えてるとか…

此処も水源地跡~
私が学生の頃に、
淀川駅(車庫)跡の
広いコンクリート地面を覚えています。

※都島大橋渡ります。
天神祭では~

国分寺(こくぶんじ)は、大阪市北区にある真言宗の仏教寺院。
寺伝によれは斉明天皇の頃(655年)、日本法相宗の祖・道昭が孝徳天皇の
菩提のために建てた長柄寺が起源といい、
天平13年(741年)聖武天皇の国分寺創建の発願により、国分寺になったという。
近世になって僧・快円が再建。
第二次世界大戦中は真言宗の京都勧修寺(真言宗山階派)の末寺であった。
高野山から移した赤不動尊で知られたが、昭和20年(1945年)の
第二次世界大戦時の空襲で焼失。
昭和22年(1947年)に真言宗国分寺派本山となって独立した。
『摂津名所図会』には本尊阿弥陀仏は聖徳太子の作、赤不動尊は空海の作とあり、
行基の開基とする。
摂津国分寺については、別に天王寺区にも国分寺がある。




私が小学校時分の出来事なんですね。
大阪万国博に湧いていた、あの頃。
天六ガス爆発事故 (てんろくガスばくはつじこ)とは、
1970年(昭和45年)4月8日夕刻、大阪府大阪市大淀区(現・北区)国分寺付近の
大阪市営地下鉄谷町線天神橋筋六丁目駅工事現場で起こったガス爆発事故である。
死者79名、重軽傷者420名の大惨事となった。
(梅田~都島間3.2キロの延長工事。万博を前にした地下鉄網緊急整備計画によるものだった。)
家屋の被害は全半焼が26戸、爆風を受けての損壊336戸、やはり爆風で
ドアや窓ガラスが壊れた近隣の家屋は1,000戸以上ともいう。
1970年(昭和45年)4月8日17時15分頃、
地下に露出した都市ガス用中圧管と低圧管の水取器の継手部分が抜け、都市ガスが噴出した。
たまたま通りかかった大阪ガスのパトロールカーが通報し、
事故処理車が出動するものの現場付近でエンストを起こす。
処理車はエンジン再始動のためにセルモーターを回すが、
その火花にオープンカット方式の覆工板の隙間から漏れたガスが引火して17時39分頃炎上。
この時には、騒ぎを聞きつけた野次馬と
大阪ガスの職員、消防士、警察官などが現場に集まっていた。
そして17時45分頃に事故処理車の火が覆工板直下の地下部分に
充満していた都市ガスに引火して大爆発。
工事現場の道路上に長さ約200m×幅約10mにわたって
約1,000枚が敷設されていた覆工板のほとんどが上に乗っていた人間もろとも吹き飛ばされ、
多くの犠牲者を出した。
事故発生後、怪我人の多くは同区内の北野病院をはじめ大阪市内の25箇所の病院に搬送された。
大阪府警察本部は爆発事故現場から西へ約200mの大阪市北市民会館に18時に現地警備本部を設置、
また大阪市も同じ場所に20時に災害地対策本部を設置して対応に当たった。
犠牲者の遺体は同区内の太融寺、難波別院、鶴満寺等に安置された。
(Wikipediaより)

※先輩のミーちゃんも、小学校終わってから野次馬として訪れ
帰りに見に源八橋渡っている時に爆発が遭ったと…
紙一重で助かったとか。。
綺麗に祀られています~
黙祷…

鶴満寺さん
上方落語『あたま山』にも出てきます。
桜の名所だったとか…



天満音太小屋さんで
桂 米二さんの落語会の帰り道
飛翔橋渡って~



大川
毛馬・拘置所方向~
我会の初ポタも…

※都島大橋
天神祭時にも…

渡辺綱・駒つなぎの樟
善源寺町1-11
当地は明治42年(1909)まで旧善源寺村の産土神社が鎮座したところで、
この樟の大樹は同社の境内にあったものです。この樹は平安時代の中ごろ、
源頼光が社を創建する際に植えたもので、
頼光の家臣の渡辺綱が参詣するとき馬をつないだとの伝承があるところから
「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれています。
この伝承は当地が鎌倉期に源氏ゆかりの多田院領善源寺荘であったことや、
この樹が樹齢 900年余もの大木であるところから、酒呑童子退治で有名な
源頼光や渡辺綱に結びつけられて生まれたものと考えられます。
『大阪府全志』によれば、大正の頃、この樟は周囲約12メートル、
高さ約30メートルもの大木でした。
昭和のはじめに大阪府の天然記念物に指定されましたが、
戦災で枯死し現在は往時の姿を偲ばせるだけになっています。
(大阪市都島区HPより)

私の好きな大樹
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※大阪近郊の大きな楠は
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しだれ梅の季節…

※昭和路地

榎並川跡
あの建物がない…
前には
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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