古/いにしえの面影       其の一阡弐百壱拾二

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2015年11月28日 日曜日
アップ日  2016年03月01日 火曜日
和歌山県紀の川市東国分

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

紀の川市(きのかわし、英語表記:Kinokawa-city)は、和歌山県北部に位置する市である。
2005年11月7日、那賀郡打田町、粉河町、那賀町、桃山町、貴志川町の5町が合併し誕生した。
「紀の川市」という市名は公募によって決められた。
那賀郡:明治2年(1869年)8月 - 高野山領が堺県の管轄となる。
明治3年4月27日(1870年5月27日) - 堺県の管轄地域が五條県の管轄となる。
明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が和歌山県の管轄となる。
以下略
紀伊国分寺跡:聖武天皇の詔による建立とされるが、創建の記録は残っていない。
『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)に紀伊国を含む26ヶ国の国分寺に対する法具頒布の記事がある。
また『日本三代実録』には元慶3年(879年)2月22日に「紀伊国金光明寺」が火災により焼失したとある。
しかしその後すぐに復興したものと見られ、『延喜式』には紀伊国分寺料として20,000束の記載がある。
その後平安時代後期までは存在が確認されるが、中世に入ると衰退し文献への登場はなくなる。
一方、現・国分寺の経緯を伝える史料では、寛永4年(1628年)に無本寺から根来寺末になったといい、
寛延4年(1751年)に藩寺社奉行の直轄下に入ったという。
また、浅野氏時代には寺領4石5斗、徳川氏時代には3石2斗が与えられていたという。
昭和3年(1928年)2月7日、国の史跡に指定された。
その後昭和48年(1973年)から昭和50年(1970年)の発掘調査によって寺域が二町四方(約218メートル四方)と判明し、
伽藍配置・規模が確認された。
その後、昭和60年(1985年)に国の史跡に追加指定された。
(Wikipediaより)


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北に葛城の山々が~
河岸段丘に圃場が広がって…



平らな圃場に
ポコンと集落が点在してます。

※通称キャベツ車

冬野菜

※家屋門

春日神社跡
脇を流れる春日川上流に
春日池が有り
鎌倉期に奈良から勧請された春日神社が在る。
行かねば…今度ね!

※富有柿紅葉

遠く御茶屋御殿山(278.6m)
此処が雲に隠れると
雨が降るんですわ。

※街道のような~

石はガードレール代わり…



コンクリ製の地蔵堂

※モニュメント!







地蔵堂

※多くの地蔵様や多宝塔頭も合祀され~

お大師様も~



二階部の軒の低い家屋
格子に木戸が綺麗~



此処にも~

※山裾から河川に向かっての段

大きな家屋門(長屋門)

※内部は日常が~

案外スタンダードな家屋群

※此処にも地蔵堂

正面から~
綺麗に祀られて。



共同墓地にも気になる場所が~

※晩秋風景

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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