ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
紀伊国分寺跡
寺域は2町四方(約218メートル四方)。
伽藍は南から南門・中門・金堂・講堂・軒廊(こんろう)・僧房が一直線に配置されている。
また塔は金堂の東前方に、鐘楼と経蔵は金堂の後方に配置される。
さらに、中門左右から出た回廊は金堂・塔・鐘楼・経蔵を内に囲んで講堂と接続していた。
寺の東側は雑舎に当てられたものと推測されている。
塔は七重塔と推測され、一辺16.4メートルの瓦積基壇上に緑泥片岩製の心礎を始め全ての礎石が旧状を保っている。
聖武天皇の詔による建立とされるが、創建の記録は残っていない。
『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)に紀伊国を含む26ヶ国の国分寺に対する法具頒布の記事がある。
また『日本三代実録』には元慶3年(879年)2月22日に「紀伊国金光明寺」が火災により焼失したとある。
しかしその後すぐに復興したものと見られ、『延喜式』には紀伊国分寺料として20,000束の記載がある。
その後平安時代後期までは存在が確認されるが、中世に入ると衰退し文献への登場はなくなる。
一方、現・国分寺の経緯を伝える史料では、寛永4年(1628年)に無本寺から根来寺末になったといい、
寛延4年(1751年)に藩寺社奉行の直轄下に入ったという。
また、浅野氏時代には寺領4石5斗、徳川氏時代には3石2斗が与えられていたという。
昭和3年(1928年)2月7日、国の史跡に指定された。
その後昭和48年(1973年)から昭和50年(1970年)の発掘調査によって寺域が二町四方(約218メートル四方)と判明し、
伽藍配置・規模が確認された。
その後、昭和60年(1985年)に国の史跡に追加指定された。
(Wikipediaより)
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