古/いにしえの面影       其の一阡参百
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2016年07月30日 土曜日
アップ日  2017年02月17日 金曜日
京都府久世郡久御山町東一口 Ⅰ

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

巨椋池(おぐらいけ)は、京都府の南部、
現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。
規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、
現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である湖山池よりも広かった。
豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする
土木工事などにより時代によって姿を変え、
最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた
干拓事業によって農地に姿を変えた。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、
水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。
(中略)
国営干拓事業は1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われ、
巨椋池は干拓され、農地になった。
干拓後の農地における用水利用を考慮し、池の底部を小倉堤や池に点在した島で埋めた程度で、
ほとんどがポンプを用いた排水によって干拓された。
なお、干拓前の巨椋池は東西4キロメートル、南北3キロメートル、
周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートル(約800ヘクタール)、
平均水深は90センチメートルであった。
当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

遥か向こうの山際までが
湖面と思えば~
R1第二京阪国道より

※前に行った
松井山手方面
成る程、太古は湖の畔だったんですね。

巨椋池から
唯一宇治川に流れ出していた地区

※元巨椋池方面~
流れは、ほぼ無い

古川に掛かる橋を渡って
東一口集落へ~
今では第二京阪道路高架道が~

※可愛い
学童飛び出し注意看板

此処だけ見たら
普通の河川脇集落風景

※国土交通省久御山排水機場の向こうには
西一口集落

集落の西の端から~

※弁柄家屋~

集落のメイン通り~

※背骨のように
高台ですね。

弁柄風~

※平入り家屋が並んでいます。

二階部は低く~

※街道ではないですが~

板塀やブロック塀で目隠しがなされています。


石垣になれば前に訪れた菅浦思い出します。

この地区の他では見ませんが~

※お隣はブロック塀でした…

近畿農政局
巨椋池排水機場
各省一丸となって
干拓したんですね~

※水門

村中道が~

※街道風景のように~

蔵は石垣での嵩上げなし。

※民家は嵩上げしています。

この結界は?
前には~
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※職人さんの
小さな拘りも~

石畳と土蔵が~

※エエもん入ってますか?

空き地は悲しいなぁ~

※此処には段蔵が~

ヤンチャそうな地蔵様

※ギンヤンマが似合う路地

階段下れば~

※昔は漁に出かけたんでしょうね。
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ツバメの巣箱

※新しいお家も~

巡回送迎バス
バス停ですか~

東西の村中道



丸々1階分が段差と成っています。

※こちらが高いのか
あちらが低いのか~

南北に横断する路地




東西の村中道



大漁時は
シンドいなぁ~



面影は残っています。

※サイコロ?

下は舟倉庫
上は車庫?

※北側路地

東へ~



北方向
川の脇は雁木でしょうか?



化粧地蔵様

※石臼

家の改築中?



旧山田家住宅改修中~
旧山田家住宅(主屋・長屋門・長塀)は、平成22年4月28日国登録有形文化財に登録。
旧山田家住宅は、京都府久世郡久御山町北西部の東一口(ひがしいもあらい)にあり、
今は干拓されて面影はありませんが、周囲16キロ㍍、面積800ヘクタールに及んだ
巨椋池(おぐらいけ)の南西に位置しています。
山田家は本山田とよばれ、淀川・巨椋池の漁業者の代表として
御牧郷13カ村をまとめる大庄屋でした。
敷地は、およそ東西40m、南北30mで水害の危険を考えて石垣の上に築かれています。
入口の長屋門は、飾り瓦を棟にのせた本瓦葺や漆喰塗の壁、与力窓、出格子が付くなど、
武家屋敷のような重厚な構えをみせ、往時の格式を偲ぶことができます。
規模は、東西約27m、南北約4m、入母屋造で組棟の上段に松葉菱、
下段に「丸に五つ引き」家紋の瓦が組み込まれています。
外観の意匠は往時の状態が受け継がれ、建築史・歴史的、文化的に興味深い貴重な建物です。
(久御山町HPより)


※読めん~

東一口(ひがしいもあらい)
かつての巨椋池の西岸あたりにあった「一口」という地名は「難読地名の王様」ともいわれています。
「ひとくち」でも、「いちくち」でもなく、これで「いもあらい」と読み、
現在でも、「東一口」「西一口」とに、その名を残しています。
『平家物語』や『吾妻鏡』、『承久記』、『太平記』などの中世資料にも、
その地名が記されており、淀とともに京都南部の攻防の要衝の地となった場所です。
 なぜ「一口」は「いもあらい」と読まれるのでしょうか。
一説には、「いもあらい」とは「いみはらい」(忌み祓い)の変化したものだといわれています。
「忌む(斎む)」や「払う(祓う)」は、「身を清め、禍を払う」という意味を持っています。
この「はらい」が「あらい(洗い)」に変化し、「いもあらい」となったと考えられます。
一口のあたりは湿地帯で、洪水が頻繁に起き、そのために疫病が流行ることもありました。
その災いを「追い払う」ために、人々が捧げた祈りや願いがこの「一口」の名には残されているのではないでしょうか。
 一口の集落は、かつては北・東・南の三方が巨椋池によって囲まれた場所にあり、村への出入り口は、西のただ一方でした。
漢字の「一口」は、まさにこの立地条件を表し、「ひとくちのいもあらい」と呼ばれていたのが、
後に「ひとくち(一口)」と書いただけで「いもあらい」と読まれる地名となったのではないかと思われます。
(国営巨椋池農地防災事業HPより)


此処の村中路地の真骨頂景色

※向こうは後で~

安養寺さん
高い石垣

此処にも結界

※まじない?信仰?
京都市内では見ませんでした。

昔は半島だったんですね。



二階蔵
軒は雨切りですかね?



多木化学株式会社(たきかがく)は、兵庫県加古川市に本社を持つ、
肥料や化学品を製造するメーカーで日本肥料アンモニア協会にも参加する。
肥料、水処理薬剤の大手メーカーとして知られる。
日本で初めて人造肥料を開発した企業。1885年(明治18年)個人で蒸製骨粉の製造を開始。
「しき島」「タキポリン」や「マグホス」といった複合肥料製品は、
全国の特約販売店を中心に販売されている。
園芸や関連する製品を数多く生産している。土壌改良材でも数多くの製品を持つ。
肥料分野では国内大手メーカーの1つであり、日産化学工業、三菱化学と共に
日本の農業分野の発展に大きく影響を及ぼした。
化学品分野では無機系水処理薬剤を得意とし、ポリ塩化アルミニウムPACは世界トップレベルにある。
国内シェアは40%で国内最大手である。
二本の鍬の柄を重ね合わせたマーク(神代鍬)は同社の登録商標であり、
農村部では昔ながらのホーロー看板が店の軒先に取り付けられているところも多い。
戦時中の1944年には、住友化学工業と共に、住友精化の設立に参加したことでも知られる
(住友精化の主要工場は同社の本拠地に近い加古郡播磨町や姫路市に現在も存在する)。
本社工場と同住所に住友精化があり、多木化学が土地を譲渡している。
その他、能登半島において、人造肥料の原料となる燐鉱の採掘を行なっていた時期もあった。
(Wikipediaより)



背の低い虫籠窓も~

※中二階ですかね~

南側
石畳と高い石垣が~

※腰板が高い土蔵




手すり付き家屋
好きなんですわ!

※マンホール
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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