古/いにしえの面影       其の一阡弐百九拾九
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2016年07月30日 土曜日
アップ日  2017年02月17日 金曜日
京都府京都市東山区新シ町~五条橋東

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

松原通(まつばらどおり)は京都市の東西の通りの一つ。
東は清水寺門前から、西は佐井西通の一筋西まで。
東の端、清水寺門前から東大路通までは清水道ともよばれる。
寺町通から西は平安京の五条大路にあたる。
松並木の綺麗な通から「五条松原通」と言われるようになり、
後に「松原通」の名前だけが残った。
豊臣秀吉が五条の橋を現在の地に架けたことから二筋南に五条通の名前が移った。
つまり、牛若丸と弁慶が出会ったと言われる「五条の橋」は、松原通に架かる橋が正当であり、
現在五条大橋西詰におかれている2人の像は二筋南におかれていることになる。
なお現在の松原橋は1935年の鴨川水害で倒壊流失後に架け替えられたものである。
牛若丸と弁慶の出会ったとされる橋も、鴨川であるとする説の他、鴨川には橋は架かっておらず、
沿道の五條天神社の近く、西洞院通に沿って流れていた川に架かっていた橋であるとする説もある。
現在は多くの区間が一方通行の細い道で、東大路以東が西行き・
東大路-木屋町間が東行き・木屋町-河原町は拡幅され両方通行、河原町-烏丸間が東行き一方通行、
烏丸-大宮通間が西行きの一方通行、(佐井通-西大路通間を除く)
大宮以西は拡幅され両方通行と車で松原通を通り抜けられない。
堀川通をはさんで商店街が続く。
近年、通りを盛り上げるイベントが開催されている。
昔は祇園祭の山鉾巡行も行われていたりする歴史のある通りである。
八坂神社伏見稲荷大社の祭りの境界線がこの辺りである。
(Wikipediaより)


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マダさんが大好き!
力餅食堂

旧町名ですか?
松原新町南路地

今、見えているものは
自分の都合だったりする~

ホンマやね!

何となく ポケットの小銭を
握ってる
今日は九百三十円を生きる~

フム…

虫籠窓付き路地の入口

※フヨウの咲く路地

小野篁卿奮跡碑・六道の道碑
六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。
山号は大椿山。本尊は薬師如来。8月7 - 10日の六道詣り、
小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸(寺宝展等の特別公開時を除き非公開)で知られる。
平成23年のお盆頃、隣接民有地(旧境内地)から冥土よりの帰路に使ったと伝わる「黄泉がえりの井戸」も発見される。
通称:六道さん。この付近が「六道の辻」であるとされる。
この寺の所在地付近は、平安京の火葬地であった鳥部野(鳥辺野)の入口にあたり、
現世と他界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。
「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされている。
創建は延暦年間(782年?805年)とされ、開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊とされるが、
異説として空海(「叡山記録」ほか)や小野篁(伊呂波字類抄・今昔物語集)などとする説のほか、
かつてこの地に住した豪族鳥部氏の氏寺(鳥部寺、宝皇寺)がその前身であるともいう。
東寺百合文書の「山城国珍皇寺領坪付案」という文書(長保4年・1002年)には、
珍皇寺は承和3年(836年)に山代淡海が創建したとある。
藤原道長の日記『御堂関白記』長保6年3月12日(1004年4月4日)条にある「珎光寺」は珍皇寺を指すとみなされる。
近世の地誌類には「珍篁寺」と書かれることもあり、
寺号は本来「ちんのうじ」ではなく「ちんこうじ」と読まれていたと考えられている。
珍皇寺には念仏寺、愛宕寺(おたぎでら)などの別称もあり、『伊呂波字類抄』『山城名跡巡行志』は、
珍皇寺の別名を愛宕寺とするが、愛宕寺が珍皇寺と念仏寺に分かれたともいう。
東山区松原通大和大路東入る弓矢町(珍皇寺の西方)には念仏寺という寺があったが、
大正年間に右京区嵯峨鳥居本に移転した。
鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有したが、南北朝時代以降、
寺領の多くが建仁寺の所有に転じたことと戦乱により衰退し、中世後期の寺史はあきらかではない。
貞治3年(1364年)、建仁寺から聞溪良聰が入寺して再興、この際に臨済宗に改められた。
明治に入り一時建仁寺に併合された時期もあったが、明治43年(1910年)に独立した。
(Wikipediaより)

※好機は容易に得られずそしてはずしやすい。
冷静な対応が物事を成功させる秘訣である。
ほ~

色んな歴史の積み重ね~
見えないですがね!

※ハッピー六原

笑い路地だそうで~



貴匠桜



路地看板
金牌さしみ醤油



真っ直ぐが松原通り~

※子育飴

京名物
幽霊 子育飴
ある夜、店じまいした飴屋の雨戸をたたく音がするので主人が出てみると、
青白い顔をして髪をボサボサに乱した若い女が「飴を下さい」と一文銭を差し出した。
主人は怪しんだが、女がいかにも悲しそうな小声で頼むので飴を売った。
翌晩、また女がやってきて「飴を下さい」と一文銭を差し出す。
主人はまた飴を売るが、女は「どこに住んでいるのか」という主人の問いには答えず消えた。
その翌晩も翌々晩も同じように女は飴を買いに来たが、
とうとう7日目の晩に「もうお金がないので、これで飴を売ってほしい」と女物の羽織を差し出した。
主人は女を気の毒に思ったので、羽織と引き換えに飴を渡した。
翌日、女が置いていった羽織を店先に干しておくと、通りがかりのお大尽が店に入ってきて
「この羽織は先日亡くなった自分の娘の棺桶に入れたものだが、どこで手に入れたのか」と聞くので、
主人は女が飴を買いにきたいきさつを話した。
お大尽は大いに驚いて娘を葬った墓地へ行くと、新しい土饅頭の中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
掘り起こしてみると娘の亡骸が生まれたばかりの赤ん坊を抱いており、
娘の手に持たせた三途川渡し代の六文銭は無くなっていて、赤ん坊は主人が売った飴を食べていた。
お大尽は、「娘は墓の中で生まれた子を育てるために幽霊となったのだろう」と
「この子はお前のかわりに必ず立派に育てる」と話しかけると、娘の亡骸は頷くように頭をがっくりと落とした。
この子供は後に菩提寺に引き取られて高徳の名僧になったという。
京都東山(松原通大和大路東入二丁目轆轤町)には、幽霊に飴を売ったとする飴屋(「みなとや」)が現存しており、
「幽霊子育飴」を販売している。
当時の飴は水飴のようなもので現在は固形で売られている。
飴に添えられた由来書によれば、幽霊の子どもは六道珍皇寺の僧侶になり、寛文6年(1666年)に68歳で入寂したという。
これに従うなら、幽霊が飴を買いにあらわれたのは慶長4年(1599年)の出来事になる。
(Wikipediaより)

※此処でですか~

六波羅蜜寺さん

※六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)は、
京都府京都市東山区にある真言宗智山派の寺院である。
山号は補陀洛山。本尊は十一面観音。開基(創建)は空也。西国三十三所第17番札所。
踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)が平安時代中期の天暦5年(951年)に
造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初西光寺と称した。
空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、
念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。
空也は応和3年(963年)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったが、
この時をもって西光寺の創建とする説もある。
当時、鴨川の岸は遺体の捨て場であり、葬送の場であった。
空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。
それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となった。
平安末にはこの付近に、六波羅殿と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれた。
またのちに鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近である。
名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するが、この地を古来「六原」と称したことに由来するとも考えられている。
なお、六波羅密寺とする表記が古今多く見られるが、誤字である。


 

合槌稲荷神社
西轆轤町



みつもり2路地

※他にも~

五条坂と同じ傾斜

※大蔵省杭

前に
南さんとも来ましたね~



可愛い顔~

※牛乳箱

明るい光は
R1

※歩道橋から西見て~
大好きなんです!

歩道橋から東見て~
五条坂風景



 帰り道
下京区にて
ゲストハウスに~

六神丸・亀田利三看板
六神丸(ろくしんがん)は、動物性の生薬を中心に配合された民間薬処方の一つである。
成分は麝香、牛黄(牛の胆石)、熊胆(月の輪熊の胆嚢)、人参(オタネニンジン)、真珠、蟾酥(せんそ)で、
六神丸の名前はこの6つの神薬(高価で貴重な薬)でできていることに由来との説のほか、
中国の四神(青竜、白虎、朱雀、玄武)に勾陳(こうちん)と騰蛇(とうしゃ)を加えた六神から由来するという説、
五臓六腑の五臓(肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓)に心包を合わせた
六臓に効果があるという考え方に由来するという説がある。
京都の呉服商だった亀田利三郎(かめだりさぶろう)という人が、商用で清国に渡ったとき体をこわし、
この薬を飲んだところ大変効いたので、それを輸入して日本に広めたが、明治になってから
この輸入薬にヒ素が入っていたために販売禁止になり、1899年頃にいまの処方にしたという。
一粒が6mgくらいの小さな丸薬で、口に含むと麝香に由来する強いブーケと、牛黄などのかなり刺激的なえぐみがある。
めまい、息切れ、心臓病などに効くとされている。
かなり人気のある薬方で、元祖の亀田利三郎薬舗のほか、多くの製薬会社が生産・販売しているが、
処方は少しずつ違っているようである。
救心製薬の主力製品「救心」の原点となったのも、この六神丸である。
当初は「ホリ六神丸」として売られていた(現在も発売中だが、救心がメインのためサブ的な扱いとなっている)。
ちなみに、六神丸が6種類の生薬を使用しているのに対し、救心は8種類の生薬が使われている。
(Wikipediaより)


※後日、エッチャンから~
家にも有るよ!と
小さいもんですがね。。。
昭和40年頃のものとか~
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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