古/いにしえの面影       其の一阡弐百九拾六
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2016年07月30日 土曜日
アップ日  2017年02月15日 水曜日
京都府京都市東山区五条橋東(大谷本廟)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

大谷本廟(おおたにほんびょう)は、
京都府京都市東山区にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)の
宗祖親鸞の墓所である。通称は、「西大谷」。
大谷本廟は、「日野誕生院」・「角坊」(すみのぼう)とともに「宗教法人 本願寺」が所有する
飛地境内建物である。
大谷本廟は、1272年(文永9年)に東山大谷の地に建立された親鸞の廟堂である
大谷廟堂」(のちの本願寺〈大谷本願寺〉)に由来する。
江戸幕府は、西本願寺第十二世の准如時代の1603年(慶長8年)に、
知恩院の拡張造営に際して、大谷本願寺跡地の代替地として、
宗祖親鸞が荼毘に付された「鳥辺野(とりべの)の南の辺、延仁寺」と伝わる
「御荼毘所」に隣接する現在地を与えた。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

西本願寺派の墓所ですか~



参道~



円通橋(えんつうきょう)は、京都の大谷本廟の表門の前にある花崗岩の石橋。
幅約6m、長さ約40m。1856年(安政3年)の建立で、
直径約4mの二連の円形アーチがあることから「西大谷の眼鏡橋」とも呼ばれる。
昔は赤白の蓮が咲き乱れ、風光明媚な場所として有名だったが、
昨今では橋の下の円形アーチに気付かない人も多い。
(Wikipediaより)

※円通橋上から~

師弟愛の碑
室戸台風(むろとたいふう)は、1934年(昭和9年)9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、
京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした台風。記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、
高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3000人の死者・行方不明者を出した。
枕崎台風(1945年)、伊勢湾台風(1959年)と並んで昭和の三大台風のひとつに数えられる。
人的被害は、死者2,702人、不明334人、負傷者14,994人[1]。家屋の全半壊および一部損壊92,740棟、
床上・床下浸水401,157棟、船舶の沈没・流失・破損27,594隻という被害を出した。
9月21日午前5時頃に高知県室戸岬西方に上陸。
上陸時の気圧として911.6ヘクトパスカル(684水銀柱ミリメートル)という数値を観測しているが、
これは日本の台風観測史上記録的な数値である。
台風は淡路島付近を通過し、午前8時頃に阪神間に再上陸、京都付近を経て若狭湾に出た。
台風進路右側では強風のため建造物の倒壊被害が大きく、とくに学校の木造校舎の倒壊により
児童・教員など学校関係者に多くの犠牲者が出た。
また、大阪湾岸では高潮により大きな被害が出た。
京阪神地方における被害は「関西風水害」の名で呼ばれる。
大阪城公園には死者を慰霊する塔(教育塔)が建てられている。
京都府では京都市内乙訓山城地域に被害が集中した。
学校被害はもとより、神社仏閣の被害は上賀茂神社・下賀茂神社の国宝建築物や
伏見稲荷大社の大鳥居など21棟が倒壊、170社以上が被害を被った。
寺院では知恩院・西本願寺・建仁寺方丈・醍醐三宝院純浄庵など27寺院が倒壊、900を超える寺院で被害が出た。
このほかにも上京区役所・勧業館・岡崎公会堂本館・京都病院・宇多野療養所などが全半壊したり大破した。
(Wikipediaより)



檜皮葺総門

※ごあんない

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日)は、
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。
法然を師と仰いでからの生涯に渡り、
「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、
さらに高めて行く事に力を注いだ。
自らが開宗する意志は無かったと考えられる。
独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
親鸞の念仏集団の隆盛が、
既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で、
宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。
浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が
完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、
後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。
伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、
「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。
(Wikipediaより)


総門
蝉時雨の中~

※NO HUNTING!
ポケモンGOですか~

扁額
昇り龍・下がり龍


凝ってます!

欅製、牡丹ですね。

※波間に鶴も~

境内は海外の方が多く目に付きます。

※鐘楼

仏殿

※往くも還るも他力ぞと
ただ信心を
すすめけり

百日紅も朱く赤く~

※太い大きな幹

境内見返って~

※仏殿裏~

懸魚

※二天門

明著堂と
第一無量寿堂

※読経所

祖壇・明著堂



覚信尼(かくしんに、元仁元年〈1224年〉 - 弘安6年11月24日〈1283年12月14日〉?)は、
鎌倉時代浄土真宗の宗祖とされる親鸞の末娘。母は恵信尼。俗称は王御前(わうごぜん)。常陸国の出身。
久我通光の女房となって兵衛督局と呼ばれた。日野広綱に嫁して覚恵・光玉尼を出産したが、
広綱の没後、小野宮禅念と再婚して唯善を生んだ。
父親鸞が東国より帰京する際に、母恵信尼に替わって上京し、親鸞の世話をすることになったと伝わる。
その後はずっと京都における親鸞の布教を支えてきた。 親鸞没後は弟子達の布教に際してのまとめ役となり、
そのことが浄土真宗教団の発展に繋がった。
直弟子顕智らの協力を得て、京都東山大谷に廟堂(大谷廟堂)を建立した。
自らは留守職となって本願寺の基礎を築いた。
(Wikipediaより)


上れば鳥辺山墓所に続きます。

※西側見たら
愛宕山が正面に~

多寶山実報寺さん



髭題目

円通橋
丸窓が見えません

※大谷道と
清水道との分かれ道
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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