古/いにしえの面影       其の一阡弐百弐拾四
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2013年10月18日 金曜日
アップ日  2016年03月17日 金曜日
大阪府大阪市生野区~東成区(亀の橋)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

四天王寺の東門から東へ約3kmの大通りが勝山通です。勝山通は、
生野の中央を東西に行き来する生野のメインストリートで
大阪~八尾線または難波足代線とも呼ばれます。
その中ほどに、御勝山(おかちやま)古墳の小山があり、明治23(1890)年から
大正15年までこの辺り4万3千坪(約141900平方メートル)の広い地域に『府立農学校』がありました。
また、古墳の南側には『大阪管区気象台』もありました。現在、その跡地は『御勝山南公園』になっています。
 『御勝山南公園』には、折口信夫(おりぐちしのぶ)の文学碑があり、
「小橋(おばせ)すぎ 鶴橋生野来る道は古道と思う 見覚えのなき」と刻まれています。
勝山通は、歴史の散歩道の一部です。
(大阪市生野区HPより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

国旗掲揚台~
興亜日本
国威宣揚
ブリキバケツ…

※勝山六南町会

紀元2600年記念
昭和14年銘
(本当なら昭和15年ですが)

大きなボルトナット
供出は無かったんですね。

生野史跡遊歩道
鋳造製、見にくいですが…

※御勝山古墳

大阪管区気象台跡
昭和43年まで御勝山南公園に大阪管区気象台がありました。
昭和4年にまず地震観測所が、つづいて昭和8年に気象観測所が港区から移転しました。
当初は中央気象台大阪支台と呼んでいましたが、昭和14年に大阪管区気象台と改称されました。
現在の気象観測は宇宙に衛星を打ち上げ、より正確なデータで予報する時代となっていますが、
初期の観測は地上だけでおこなわれていました。しかし、当時の観測としては画期的なもので、
災害の防止や被害の軽減に役立てるほか観測資料の統計や気象学の研究など、
広範な業務をおこなっていました。
こうして、近畿・中国・四国地方を統轄して、業務をおこなってきたこの気象台も、
昭和43年8月に中央区の大阪合同庁舎に移転され、生野区での業務を終了することとなり、
その跡地に現在の御勝山南公園ができました。
(大阪市生野区HPより)


※御勝山古墳内に建つ
大阪府立農学校址碑

御勝山古墳のすぐ東側の交差点は
俊徳街道鶴橋街道桑津街道
交差する交通の要衝でもあ有った。

※西俊徳地蔵尊
昔、信貴山のふもとに高安左衛門道俊とよばれる長者がいました。
長男の俊徳丸が苦しい難病にかかり、神様や仏様におすがりして全快しました。
この事は五百年ほど前に「俊徳丸物語」として謡曲に取り入れられ、「弱法師」という題で有名です。
高安の里に住む俊徳丸は悪人にいじめられて病気になり、
四天王寺でさまよっている所を父にめぐりあい、家に連れて帰られるという物語です。
 区内の街道沿いには俊徳地蔵尊、俊徳橋があります。
何百年を過ぎた今も郷土の文化財として語り継がれています。
(大阪市生野区HPより)


大峯山上三十三遍

右:兵(たん山)
若江・十三峠

※道標が角石状態。

鶴橋街道
地車庫

※ん?

芳名不滅碑
小路中

※時代は?

保存樹
ムクノキ

※大阪市保存樹規定
大阪市が指定した樹木のことで、樹種や樹齢は問わず、幹回り1.5メートル以上、
/高さ15メートル以上等を指定基準とする老樹・巨木です。
(1)高さが1.5メートルの位置で幹回りが1.5メートル以上はあること。
(2)高さが15メートル以上あること(株立ちした木は3メートル以上)
(3)枝葉がはいのぼる木は枝葉の面積が30平方メートル以上あること。
(大阪市HPより)


見返って~

※角石ですね。

東成区に入って~
この碑のある場所は、4代目桂米團治(1896~1951、本名:中濱賢三)が営んでいた中濱代書事務所があった場所です。
碑に刻まれた「4代目桂米團治」の文字は、4代目自身による署名を写し取ったもので、同じく碑に刻まれた
「儲かった日も代書屋の同じ顔」は、4代目作の川柳であり、この碑のために5代目桂米團治が書いたものです。
この碑の除幕式は、5代目桂米團治はもとより4代目桂米團治の弟子である人間国宝・桂米朝や4代目桂米團治の
親族も参列して、盛大に行なわれテレビや新聞にも報道されました。
米朝も「この場所に通った」ことや当時のエピソードを話しました。
この代書事務所での体験を題材にした落語「代書」(1939年初演)は、4代目桂米團治の創作による傑作です。
また説明板の右上にある割り印の「割印で代書罫紙に箔をつけ セイホ」も4代目自身によるものを
写し取ったものです。
(おどろきの鶴橋今昔ばなしより)




区役所の駐車場横に~

※区役所近くに
タイル家屋も~

大阪セルロイド会館は昭和6年(1931)に建築され、昭和12年(1937)に増築されました。
列柱構成と町家風のデザインとを組み合わせたこの建物は、平成13年(2001)に
文化庁により登録有形文化財(建造物)に指定されました。
この地域がセルロイド産業の中心地であった時代の息吹が感じられ、産業史跡としても重要です。
(おどろきの鶴橋今昔ばなしより)




平戸橋
平野川~

※親柱

伝正院さん前に
此の付近 松下幸之助起業の地

※世界のパナソニックの創業者・松下幸之助は大正6年(1917)6月、
自身が考案した「松下式ソケット」を製作するため、それまで勤めていた大阪電燈(株)を退職。
当時住んでいた猪飼野の借家、四畳半・二畳の二部屋のうち四畳半の床を落とした作業場で、
妻「むめの」やその弟の井植歳男(三洋電機の創業者)らとソケット作りを始めますが、
作ったソケットは皆目売れずに困窮、そこにたまたま舞い込んだ扇風機碍盤の注文で窮地を脱し、
翌年の3月、さらなる飛躍を求め福島区大開町の少し大きい借家に引っ越しました。



鶴の橋は前に~

亀の橋はかつて東小橋村と猪飼野村との境を流れていた旧平野川に架けられていました。
旧平野川は昭和15年(1940)に埋め立てられ、長さ9m・幅3.6mのこの石橋は
廃橋となり、現在住宅前に親柱の1本が残されています。
(おどろきの鶴橋今昔ばなしより)


※この前の道路(東西の破線道)は~
明治12年頃の地形図
明治42年(1909)、片江(現在の生野区小路一丁目)の豪農・井上和三郎氏が村の発展のため、
片江から亀の橋を経て天王寺区舟橋町に至る延長2.8km・幅3.6mの道路を独力で作りました。
その後、材木商の石田寅吉という人がその沿道に長屋を建てたために、
この付近一帯は割合早い時期から宅地化が始まりました。
(おどろきの鶴橋今昔ばなしより)

やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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