古/いにしえの面影       其の一阡弐百五

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2012年06月20日 水曜日
アップ日  2016年02月20日 土曜日
大阪府大阪市平野区長吉長原(志紀長吉神社)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

長原古墳群(ながはらこふんぐん)は、大阪府大阪市平野区長吉長原と
その周辺の地下に埋没して存在する古墳群。
古墳時代前期末から後期初めにかけて築れた群集墳である。
大阪市営地下鉄工事により存在が明らかになり、200基以上の古墳、
古墳の痕跡が検出され、多数の埴輪が出土していることで有名となっている。
1973年(昭和48年)、大阪市営地下鉄谷町線延長計画に伴う長原遺跡の発掘調査で、
地上には何ら古墳の痕跡がないのに円筒埴輪などが次々と出土した。
調査を続けると墳丘の盛土の多くは失われているものの、
周囲に濠を持つ小規模な古墳の痕跡が多数残っていることが判明した。
次いで、直径50メートル以上、残存部で2段に築かれた墳丘が姿を現し、
その地区の小字名が塚ノ本であることから、塚ノ本古墳(円墳)と名付けられた。
地籍図を調べると他にも、一ヶ塚、落塚、狐塚、高塚など
周囲にかつて古墳が存在したことをうかがわせる地名が存在し、
その範囲は南北2キロメートル、東西1.5キロメートルにも及んでいた。
これらの範囲では市営地下鉄工事の後も近畿自動車道の建設、
区画整理事業、下水道工事、住宅建設、建築の建て替え工事などに伴い、
続々と古墳の遺構が調査され、2006年までに調査、検出された数は213基にも及んでいる。
(Wikipediaより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

府道179号
平野から藤井寺繋げた古市街道沿い

※街道地蔵様

明治の地図を見たら
出戸と長吉の間位

※JA長吉

大阪市立長吉小学校:
大阪市平野区長吉地区ではもっとも古い小学校として、1873年に創立した。
1960年代以降、学校周辺が宅地化したことで児童数が急増し、
校区を分割して3つの小学校を分離している。
現在は区内で最も児童数が多い。

脇に日露戦争
忠魂碑

※石製の砲弾
前には~
1 2 3
4
他多数~
石製は金属製を供出したんでしょうか?

現在以降の
記念碑は要りませんよね。
平和でありますように~

長原の路地



集落入口には
地蔵様も~

※ん?石材~

唐臼でした…

※他にも~

石臼もセットで…

※角石

見返れば
自動車はギリギリですね。

※先は神社が~

新旧家屋のニラメッコ

他の地蔵様

※志紀長吉神社サン
裏口

長吉高周り古墳群

※1号墳の船形埴輪は宮崎県 西都原古墳群などで出土しているものと同じく、
船首、船尾が反り上がったゴンドラ形をしていた。
2号墳からは別のタイプの船の埴輪が出土しており、船首、船尾に波除板を付けるもので、
隣接する八尾市久宝寺遺跡より出土した木造船(準構造船)と同じ構造であった。
両古墳が検出された場所は現在、児童公園とされ、なみはや公園と呼ばれている。
これは大阪市が市制100周年事業の1つとして2号墳の船形埴輪をモデルに復原船が製作され、
公募によってこの船が「なみはや」と命名され、1989年に韓国釜山まで実験航海を行なったことに由来する
(大阪天保山から出航し、約700キロの航海をもっぱら手漕ぎで、35日かかったという)。
両古墳出土の埴輪の実物は大阪歴史博物館に展示されており、復原船「なみはや」の方は、
なにわの海の時空館(2013年閉館)に展示されていた。
また、同公園には長原高廻り古墳群の顕彰碑が同市によって建てられている。
古墳時代、海と繋がる河内湖は奥深く内陸に入り込んでおり、 1 2 3
長原の地も瀬戸内海や外洋と直接、繋がっていたようである。(Wikipediaより)


現風景~
この地下にも古墳が在るんでしょうかね?

※旧村南の端に
一の鳥居が有ります。

真田幸村休憩所跡

大阪夏の陣
戦国の幸村偲ぶ霧の朝

※真田幸村は、大坂夏の陣の際に、徳川方の伊達政宗軍と一戦を交えた。
その後、大坂城へ帰城する途中、この地で休息するとともに、
志紀長吉神社へ戦勝を祈願したとされる。
現在、休息所跡には自然石が建ち、その裏側に幸村の句が刻まれている。
(平野区HPより)


周りの風景~

※一の鳥居

参道燈篭~



参道はカラータイルが敷かれて…
新しい住宅も~

※昔の名残も~

志紀長吉神社サン

※お屋敷が在ったんでしょうか?
お陰で向こう側がよく見えます。

裏口
郷社なんですね。

※大坂夏の陣のとき、この地で真田幸村が刀剣と
赤地に白の六文銭の軍旗を志紀長吉神社に奉納した。
それとともに、戦勝を祈願したと伝えられている。

真田氏の六文銭は、三途の川の渡し賃とされ、家紋に六文銭を用いることで、
死をもいとわない決意を示していたといわれている。
(平野区HPより)


ズングリムックリの狛犬


※吽

アッカンベー
アニメ顔~


※吽


なにわ型

※参道真直ぐ!

拝殿社正面

※手水舎

井戸ですかね~

※奉納に公債って…
今では国債。
東京市銘も~
 
玉垣奉納記念碑

※敷石奉納記念碑

其の後姿~

※正面口裏から~
大正期の鳥居

もう一度
長吉路地へ~



入り組んで
近所旧村に似ています。
1 2

※木戸に

唐臼

※西寶寺さん

焼き板に白壁土蔵



屋門

※見返りながら~

新旧の境?


やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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