古/いにしえの面影       其の一阡弐百九拾四
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2016年07月30日 土曜日
アップ日  2017年02月14日 火曜日
京都府京都市東山区常磐町(佐藤政養招魂之碑)

ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

渋谷街道(しぶたにかいどう、旧字体: 澁谷街道)、または渋谷通、渋谷越とは、
東山を越え、洛中(京都)と山科を結ぶ京都市内の通りの一つ。
現在の渋谷街道に相当する京都府道116号渋谷山科停車場線は、東大路通(馬町交差点)から始まるが、
渋谷街道の京都側の起点はそれよりも西の本町通(伏見街道)となっている。
馬町は、六波羅探題が栄えた頃、駿馬があり鎌倉に送るためにこの地に繋留したところ、
大勢の人が見に来たことから馬町と称されるようになったと伝えられる。
また、馬町は太平洋戦争の京都空襲で最初に空襲被害を受けた地域である。
現在の渋谷街道は、上馬町・清閑寺池田町の旧道を経て、東山トンネルの手前で国道1号五条バイパスに合流する。
この東山トンネルの北側にある人道トンネルが渋谷街道の花山トンネル(花山洞)である。
合流地点の山科寄り(東山区今熊野阿弥陀ケ峯町)には「渋谷街道」の道標が建っている。
なお、認定道路としての「渋谷通」は、馬町交差点から花山トンネルの西口までが指定されている。
また、山科区側では東進し、京都府道117号小野山科停車場線(渋谷醍醐道交差点)を経て、
山科区音羽山等地附近で国道1号に至るが、かつては旧安祥寺川の東にある三叉路で北寄りに進路を変え、
厨子奥本通りを経て、五条別れで東海道(三条街道)に合流していた。
東海道との合流点(山科区御陵中内町)には「五条別れ」の道標が建っており、京都市登録史跡に指定されている。。
(Wikipediaより)


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渋谷街道碑
すぐ 大佛・本願寺

※反対側
右 火葬場
左 山科・大津
 R1走行したら~
見え隠れする煉瓦煙突

五条坂
窯垣作れば良いのに~
 
東山
陶器市には訪れてますが~
登り窯跡が~

※お香屋さん~

市内地に登り窯があったんですね。

※鐘鋳町
鋳造もしたんでしょうか?

河井 寛次郎(かわい かんじろう、
1890年(明治23年)8月24日 - 1966年(昭和41年)11月18日)は、日本の陶芸家。
当時の島根県安来町(現在の安来市)の大工の家に生まれる。
松江中学(現島根県立松江北高等学校)を経て、
1910年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学する。
寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、
学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となる。
東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、
窯業の科学的研究を行った。1914年東京高等工業学校卒業後は、
京都市陶磁器試験場に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある
濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、
中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。
1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で
京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始する。
同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚する。
第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次朗は木彫の制作も開始する。
陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げた。
材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、
1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作。
随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成させる。
老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期だったが、
壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、
アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残している。
またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはなかった。
1955年文化勲章を辞退する。
人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが、同様に辞退している。
1957年には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壷」が、
ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するも、
無位無冠の陶工とし晩年まで創作活動を行い1966年に76歳で没した。




昔のままでしょうか?



角石?
オシッコさせないでね~



火灯窓
火灯窓・花頭窓(かとうまど)は、おもに日本の、
寺社建築・城郭建築・住宅建築などに見られる、
上枠を火炎形(火灯曲線)または、花形(花頭曲線)に造った特殊な窓である。
ほかに、華頭窓、架灯窓、瓦灯窓などと表記する。また、石山寺の「源氏の間」に
見られることより通称「源氏窓」ともいう。


※見返って~

夏の暑い日でした~

※渋谷街道に~

東山向かって
見返って~

陶器の狛犬

※長屋路地も~

馬町交差点
京都空襲(きょうとくうしゅう、Bombing of Kyoto)は、アメリカ軍によって太平洋戦争中の
1945年(昭和20年)の1月16日から6月26日かけて5度にわたって行われた無差別爆撃。
第1回 1月16日23時23分頃、馬町空襲(東山区馬町)死者36名(一説に40名以上)、被災家屋140戸以上。
第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)死者2人、重傷者11人、軽傷者37人、民家半壊3戸。
第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死者50人、重軽傷者66人、被害家屋292戸、罹災者850名。
※第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。原爆投下目標だったからとされる。
アメリカ軍の資料によれば、京都市内の梅小路機関車庫が原爆投下予定地点であった。


※清水寺に急ぐ
親子連れ~

少し東山に向かった地点

※気になりません~?

龍橋辯財天
地蔵様も

※路地の入口の
BARBARも~

魅力的な路地の入口に~
佐藤継信・忠信の塚碑

※上方落語の狐忠信はこの人の事…へぇ~




佐藤 継信(さとう つぎのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。
『源平盛衰記』では義経四天王に数えられる。奥州藤原氏の家臣・佐藤基治の子。
治承4年(1180年)、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、
藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行。
義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。
『吾妻鏡』元暦2年(1185年)2月19日の条によると、
義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、一人の僧侶を招き千株松の根元に葬った。
また御幸供奉の時に後白河院から賜り、毎回戦場で乗っていた名馬「太夫黒」を僧侶に与えた。
『吾妻鏡』は「これは戦士を慈しむ手本である。これを美談としない者はない。」と書いている。
『平家物語』で継信は平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けて戦死したとされているが、
『吾妻鏡』では教経は一ノ谷の戦いですでに戦死した事になっている。
『源平盛衰記』によると享年は28(佐藤氏の菩提寺である医王寺 の継信の石塔には享年36とある)。
高松市牟礼町洲崎寺に継信と太夫黒の墓がある。
盛衰記では継信は義経の乳母子とされている。

佐藤 忠信(さとう ただのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。
『源平盛衰記』では義経四天王の1人。佐藤継信の弟。
父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。
(Wikipediaより)


※地蔵様

十三重塔の名残?

※もう一基は?

綺麗に清掃されています。

佐藤 政養(さとう まさやす、文政4年12月(1821年) - 明治10年(1877年)8月2日)は、
江戸時代末期(幕末)から明治初期の蘭学者、鉄道技術者。通称は与之助。号は李山。
出羽国飽海郡升川村(→直世村升川→現・遊佐町直世升川)の農民佐藤与兵衛の長男。
幼い頃から才気煥発で、弘化元年(1844年)に出羽庄内藩の選抜で江戸に上り、
広木貫助に砲術を、勝海舟に蘭学を、伊藤鳳山に漢籍を、佐藤恒俊に彫刻を学んだ。
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所の生徒として長崎に至り、
安政6年(1859年)秋に来日したグイド・フルベッキに測量や軍艦操練を学ぶ。
同年に庄内藩組外徒士格、江戸幕府軍艦操練所蘭書翻訳方として役付きとなった。
文久2年(1862年)に大坂台場詰鉄砲奉行、元治元年(1864年)に神戸海軍操練所を司り、
14代将軍徳川家茂の大坂港視察に帯同した。また幕閣に神奈川に代わる横浜開港を建議した。
明治維新後は民部省の初代鉄道助となり、日本初の鉄道路線となる新橋 - 横浜間の鉄道敷設に尽力した。
また、明治3年(1870年)に小野友五郎と共に東海道の調査を行い、
中山道の線路敷設を提案した調査報告書を上申、この案が中山道幹線敷設に繋がった。
明治9年(1876年)5月、病気により依願免官し翌10年(1877年)8月2日に55歳で死去。
墓所は東京都港区の青山霊園にある。
昭和39年(1964年)、国鉄吹浦駅前に銅像が建てられ、
それ以来、鉄道の日である毎年10月14日に地元では顕彰祭を行っている。
(Wikipediaより)



明治9年、病により
職を辞する直前、自らの先祖と伝承されていた
佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝わる
二基の十三重石塔があったこの土地を購入し
佐藤継信・忠信の墓碑と父文褒(与兵衛)の顕彰碑を建立してます。
(看板より)


※奥に進もうとしたら~
何処からか…
この路地は行けマヘンデ~!と~

オオキニ!スンマヘン…
やはり、持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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